人は情報が集まる場所を求める。その場所が見つかると、その場所で有益な情報を交換するようになる。時間がたつとともに魅力的な場所には大勢の人間が集まるようになる。するとさまざまな問題が噴出することになる。
コンピュータを利用したコミュニティ形成は、まず草の根BBSと呼ばれるものから始まった。BBSとはいっても、パソコン通信を利用した貧弱なシステムではあったが。
パソコン通信というのは、パソコンのモデムから電話回線を経由してホストコンピュータに接続する通信のこと。注目すべき点は、これはInternet経由ではないということ。
どうしてこのような回りくどい通信方式を取っていたのか。理由は二つある。まず日本における商用ISP(インターネットサービスプロバイダ)が普及していなかったこと。もうひとつは日本語対応User Agent(WWWブラウザ)が一般に普及していなかったこと。
商用のものとしては、NIFTY SERVE(ニフティサーブ)やNECのPC-VANなどのパソコン通信サービスがあった。当然、登録制である。87年頃から有料化。
PC−VANとかあったけど知らねーよ。んなもん、色々とやれるだけの資金なんかねーっつってんだろが。第一電話代だけでもひでぇのになんだよ、1分10円とかってよ。ま、PC−VANもNIFTYも既にこの世には存在してねぇからもういいけどな。
そう言えばネカマやって個人情報集めたやつってデータどうしたんだ?今でも持ってるやついるか?俺が持ってるやつって言えば顔文字データベースぐらいしか残ってねぇよ。
個人がホストを務める草の根ネットでも匿名性は確保されていなかった。結果、当り障りのない話題ばかりが取り上げられることになった。(その中であってもたくさんの変態を生んだが)
よく、パソコン通信は「匿名メディア」と言われるが、それはあくまでも表面上のことだけ。ニフティサーブやPC-VANなどの商業ネットは会員の名前から住所、電話番号、クレジットカード番号までを把握し、ホスト側の人間が特定個人の情報を調べることはシステム上、可能。
個人がホストを務める草の根ネットでも同様で、会員制のところなら住所や電話番号、銀行口座などが記録されるし、無料のネットでも最小限の個人情報を必要とする場合が多い。
シスオペがそれを利用して女性会員をナンパしたという話はよく聞くし、会員情報が流出した事件も現実にある。もし当局の捜索が入ったとなれば、事件に関係ない人間の情報も押収され、たとえ口座番号からでも名前や住所が調べ上げられ、事情聴取されるかもしれない。
パソコン通信では、ログイン時に入力するID番号によって個人の特定を行うことができる。調子に乗ってハンドル名だけ変え自作自演をしても、ID/host名で個々が認識できる。さらにIDから住所や氏名などの個人情報も管理人には把握できた。IDのクラッキングも行われていたようである。
パソコン通信では、匿名ではないために本音が書けない「馴れ合い」の雰囲気を作っている―。また本当に知りたいきわどい話題を知ることができない―。完全な匿名状態を作り出して、きわどい話題をパソコン通信でやってみれば、どうだろう。
1994年1月、アエロ・コムという無線機通信販売店が母体として、UL-net(AERO-COM)というBBSが誕生した。最大の特徴は完全匿名、書き込み自由、削除なし、の3点が保証されていたこと。初めは主に無線に関するアングラ話で盛り上がっていたが、やがて、様々なジャンルのアングラねた、クレジットカードネタ、商用BBSクラッキングネタ、差別ネタ、テロリストネタ等が投稿されるようになった。
個人経営の「草の根BBS」は、電気通信事業法に基づき郵政省に届け出る必要は非営利である限り、ない。ある意味管理者であるSYSOP(SYStem OPerator)の良心にすべてが任されるわけである。非営利のBBSは、管理人の趣味が発展したようなものでもありSYSOPもコミュニティの一員として参加していた。
UL-netのSYSOPもコミュニティの一員として会話を楽しんでいたようである。だが、この存在がSPA!のライターによって素っ破抜かれ、多くの人間が興味本位で訪れるようになった。このためその後、ホスプロをKTBBSに移行し、UL-netとなって生まれ変わった。アエロ・コム時代からのアクティブによる厳格なるCUG制がしかれるようになった。顛末は以下の通り。
この手のネットやCUGにありがちな裏切り行為により内部分裂の危機に陥る。最高機密であるCUG「VIPルーム」の内容が暴露されたのだ。そして、1994年9月、ついに麻薬売買の逮捕者を出し、UL-netは幕を閉じることととなったのである。
後にも先にもUL-netのようなディープなアングラBBSは、UL-net以外存在するわけもなく、UL常連メンバーの受け皿となり得るBBSは他には存在しなかった。また、不意打ち的な消滅だったため、メンバー通しで他の連絡ルートもおそらく作ってなかったのであろう。よって、その時の常連達は散り散りになり、消息は一切不明である。
その後現れた匿名BBSのひとつが「センターネット」である。上記のUL-netのように匿名、削除、書き込み自由のBBSではあったが、そのようなBBSは他にも幾つかできていたし、UL-netの時にいたクラッカーたちは多くなかった。
1993年当時、NTTは公衆電話の通話料を市内 3分10円から 1分10円へ、一挙に3倍にすると発表。これは外出先からアクセスの多い私には死活問題ですし、将来家庭の電話料金にも及ぶと、より負担が増え困るなと思いました。そこで、ネットワーカーの間でこのことを話題にするのにどんな方法がよいかと考えたあげく、自ら草の根BBSの開設を決めたのです。
入会申し込みはメールによる方法をとっていましたが、ほとんどが私の知り合い関係か、その紹介の仲間内の人ばかりで、書き込みの内容もごくごく一般的な話題ばかりだったのです。
開局した年の1993年10月には、晴海で開催された『ジャンクマーケット』に出展し、そこで各種ジャンク品の販売や入会キャンペーンなどの宣伝活動を決行。また、翌1994年 2月には急増するアクセスに対応するため、ISDN回線を導入して多回線化し、現在のアクセス番号となりました。この頃から会員数が増加し始め、それに伴って一般のネットでは書きにくい裏情報がボード上に現れてきたのです。1995年の初めには会員が 300人を突破。
その頃までは会員によるアクセスがほとんどで、ゲストはひっそりROMっていたようです。しかし、ISDN化をきっかけに、徐々にゲストアクセスが増えてきました。当時、寄付制度はあったものの基本的にはすべて私財で運営。そのため、電話回線の基本料金支払いがやっとで、ホストマシンのメンテナンスに費用をかけるなんてことはほとんど不可能です。1995年 3月、そのメンテ不足が原因と思われるハードディスクのクラッシュが発生、システムが約1カ月間停止するといった事態が発生しました。
懸命な復旧作業を行ったのですが、それまでの書き込みや会員情報は全て初期化され、1995年 4月13日、いわば振り出しに戻った形で運用を再開。このとき、IDが消失してしまった会員の皆さんにスムーズにネットを利用してもらうため、会員登録を中止。代わりに、それまであったゲストアクセスの制限を撤廃。文字通り誰でも 自由に書き込みできる状態にしたのです。これがセンターネット無法地帯化へのきっかけでした。
当時SYSOPであった中谷氏は、この時、通常の管理者とは異なる行動を取ったのである。それが「完全なる放任」である。これほど存在感の薄いSYSOPも珍しく、それがまたセンターネットという一見、無政府状態に陥りやすいBBSの性格を決定づけたと言える。ただし、無政府状態になるのではなく、その時代時代でカリスマ的魅力をもった人物によりひっぱられていた。混沌の極みから自然発生的に秩序が発生する。このセンターネットの状況を「まるでライフゲームのようだ」と例えた人もいたとか。
私は、パソコン通信の世界は小さな社会の縮図と考えています。ですから、良い人もいれば悪い人もいる。あまり発言をしない人もいれば書きまくる人もいる。そんないろいろな人たちが自由に、いつでも気軽に集まってくるところ、それがセンターネットの理想的な姿なのです。
ゆえに、ネットの状態は集まってくる人のモラルで決まってきます。センターネットの中では、自分の責任において何を行っても構いません。「真」のモラルを持った人がセンターネットを支え続けてくれるのです。
ネットのカラーはシスオペではなく、利用者1人1人が決めるものなのです。だから、私は決してボード上で議論は行いませんし、今後もするつもりはありません。常に世話係りに徹するつもりです。
この中谷氏の姿勢は現在の2ch管理人であるひろゆき氏と非常に似たスタンスであることが分かる。(そして中谷氏も不甲斐ない管理人に対する文句ネタを書かれていたようである)
もうひとつ、この時代の運営費は自腹あるいは会費、寄付制によって賄われていたが、中谷氏は「寄付したものとそうでないものに不公平感が生じる」こと、月単位の会費制では「徴収や期限の管理の煩雑さ」を危惧して、「ID利用権」というシステムを開発した。
ID利用権はいわばセンターネットのフリーパスのようなもので、3千円でID利用権を購入した人は、それを自由に転売したり又貸しができるというシステムなのです。極端な話いらなくなったらIDを人に譲ることも、何人かで共同で利用することも可能。しかもIDは匿名で購入できるので、ゲストアクセスと同じように自由な発言が行えます。
ボードへの書き込みによれば、制度発足直後はお金をドブに捨てる気持ちで購入した人が多かったようですが、ゆっくりアクセスできる(アクセス時間がゲストは6分。ID利用権使用者は35分)またファイルボードが利用できるといったメリットが受け入れられ、購入者の累計は70人を越えました。
しかし1994年 3月のシステムダウン以降、それまでの私の知人関係の会員はすっかり姿を消し、センターネット利用者の中心は、ゲストアクセスになってきました。
いまとなってはIDが一瞬でクラックされて終わるシステムだが、当時は十分機能していたようである。
97年5月には「裏パソコン通信の本'97」三才ブックスに「ハッカー御用達BBS!? “センターネット”の試み」という記事が載せられた。
以上、パソコン通信の歴史に関して、ネットワーカー研究所を参考文献といたしました。Thanx!
「情報通信白書 for Kids」インターネット年表を参考にして作成。
「Internet(インターネット)」という言葉は、複数のネット、ローカルネットワーク(LAN)、大学等、研究機関のネット(LAN)の間(inter)をつないだことを表す言葉で、本来このネットワークは、研究機関のネットワークであった。
パソコン通信のプロバイダ(OSP オンラインサービスプロバイダ)は、80年代中旬以降、インターネットと別個のものとして、当初はむしろ前者の学術利用、後者の商用利用という目的の違いから、相容れないものとして発展してきた。
大学や企業ではNTTの専用線が引かれ、ファイヤーウォールを通してインターネットに接続していた。主な行動は、メールやネットニュースの購読。95年頃にはwebブラウザ(Netscape,Mosaic)によるエロ画像の閲覧、newsでエロ情報の収集、メールによるエロ話、などに発展。
その後、アメリカにおいて1991年、インターネット協会が設立され、日本において翌年IIJが設立され、インターネットが商用サービスにも解放されることとなった。1992年12月には、AT&T Jens社がUUCP接続サービスを開始し、日本における商業インターネット利用が始まった。
郵政省が'96年12月26日に発表したインターネット・プロバイダ実態調査報告によると、日本のISPがインターネット接続サービスを開始した時期は早くとも1995年4月以降、殆どは1996年以降となっている。因みに1995年は「インターネット元年」と呼ばれていた。
余談だが、阪神大震災(1995年1月)でインターネットが活躍した!というのは嘘一部の人にとっては本当。募金活動や家族の安否を気遣うサイトが多数立てられたようだが、基本的な考えとしては、むしろインターネットの利用方法に関する関心が高まった、という解釈が妥当。それとNifty-serveはパソコン通信(インターネットからの利用も可能だけど)だし。現地では電話回線が切れていたみたいだし。阪神大震災の時、NTTホームページ上で被災者名簿が公開された。ちなみに当時のNTTのWWWサイト(www.ntt.jp)は日本で二番目にできたサイト。当時の内容はウェブアーカイブで参照できます。また、NTT東日本のサイトでは、当時のサイト製作状況がストリーミングビデオで紹介されています。
さらに脱線するが、TVで地震など災害時、家族との連絡をどうするか、というインタビューがあった。多くの人が「携帯電話を使う」と答えたことに、一抹の不安が。携帯電話は、花火大会の時でさえ使えないのに。閑話休題。
インターネットの普及が、パソコン通信事業の直接の衰退原因となった。NECがPC-VANを開始したのが'86年4月(-'01年4月)、そしてNECがBIGLOBEを設立したのが'96年7月である。この頃パソコン通信は頂点を迎える。'96年9月、PC-VAN会員数202万人。
以後、人々の関心はパソコン通信からインターネットに移行していく。CGIを利用した書き込みしやすいBBSやチャットなどの新しいサービスは利用者をインターネット上のコミュニティに移動させた。また、Nifty-serveやPC-VANなどのパソコン通信はインターネット経由でも利用可能となった。
またこの頃から多くの人がインターネットを利用し始めたが、彼らに対してはパソコン通信とそのコミュニティについての宣伝活動はもはや行われなくなった。こうしてパソコン通信は96年には573万人もの利用者を抱え、それをNifty-serveとPC-VANで二分したが、その後はそれぞれ@NiftyとBIGLOBEに形を変えてゆく。
@NiftyとBIGLOBEの加入者数がダントツで多いのは、パソコン通信時代に培ったコミュニティがあったから。
人々は、この時までIDによってSYSOPから監視されてきた。そして人々はその呪縛から逃れ、これまでの狭く同質的なコミュニティから、より広くそして匿名のインターネットの海へと、漕ぎ出したのである。
インターネットの発達はアングラ・エロサイトから始まったことは皆さんご存知だろう。
第一、ブラウザ名称がモザイクって時点でアヤシイんだよ。WMASKだFLMASKだってこぞってモザイク大会じゃねぇか。どこの会社の上層部もバカ経済新聞にでも洗脳されちまって、これからの時代はインターネットだ!って意味わかって言ってるのか?ブラウザの使い方も知らねーくせに。始めから言ってるじゃねぇか。インターネットで儲けるならエロが手っ取り早いって。 そう言えば、一時期PCゲームが盛んな時期があったが、国内ゲームは全滅と言っていいな。残ってるのはエロゲーだけだろ?
通常の情報収集とは違い、アングラやエロの情報はプロバイダによってすぐ消されるため流動性が高く、またWebは情報量が過剰なため目的の情報にたどり着くまでの時間と手間が大きくなっている。そこでWeb掲示板だ。掲示板ではコール&レスポンスが期待できる。お互いが特定の事柄に関して協力しあうことができるのだ。
掲示板が登場した直後は、掲示板自体にセキュリティというものは存在していなかった。掲示板にタグを1つ書き込むだけで十分な攻撃になっていたのである。blinkタグやfontタグを閉じないで記述することでそれまでのログを大きく点滅させて表示させたり、「無力な市民ですが圧倒的多数です」などの意味のない文章をスクリプトを使って記述したり(手動でやる奴は厨房)して攻撃することができた。荒らしを防ぐために掲示板が進化し、現在では荒らしは「手動アスキーアート書き込み」ばかりになっている。
1996年のインターネット黎明期から1998年にかけての、国内情報発信源の中心となっていたのがぁゃιぃ掲示板(アングラ)とLNB(エロ)だ。あやしい話題を総合的に取り扱うあやしい掲示板、画像貼り付け掲示板という新しいジャンルを確立したLNB。アングラの情報収集手段として重要だった掲示板も、荒らし行為やトラブルによって自然消滅を繰り返すものが殆どだった。喧嘩が始まると自然に廃れていったり、違法行為をチクられて消滅したりと、ネットワーカーは場所を追いかけるだけで一苦労したものだ。その中で2年もの安定政権を作り出し、現在もその精神が受け継がれているBBSが、あやしい掲示板だ。
恐らく国内裏情報発信源の大手となった最初の掲示板はこのぁゃιぃ掲示板であろう。紀元前1200年前の出来事だ。
ぁ史 〜あやしいわーるどの歴史〜を紐解いてみると、初期('96年7月)のあやしいはニフティから始まっていたりする。ニフティからインターネットに移り、しば氏を主宰とした時代(しば時代)が'98年9月まで続く。その中で、様様な力を発揮する。
歴史はとても古いです。今年で3年目となるわけですが、AG世界はその性質から大変危険で在るが故に短命で終わるケースが多いのです。そういった世界の中で、3年というのは異例の出来事とも言えるでしょう。
恐らく皆様の記憶にも新しい戦慄の酒鬼薔薇聖斗事件【参考:あやしいわーるど2000】、あの犯人の本名をいち早く報道したのは何を隠そうあやしいわーるどです。また、ジャーナリストの人間たちも多く、他の事件にも大変な影響を与えている事は紛れもない事実であり、現在もマスコミや大手企業に監視されているのではないかという話もあります。
この時代、アンダーグラウンドの世界はまだ始まったばかりだった。パソコン通信の時代、アングラな話題は一般的にタブーであったし、そのようなコミュニティは「敷居が高かった」。ネットに移ってからもそれは同様で、アングラとはスキルの比較的高い人間が流動性の高い小さなコミュニティを形成して、仲間内で遊牧民のように移り住んでゆく「敷居の高い世界」だったのだ。
初心者がそのようなコミュニティに触れれば「初心者ウゼエ」と弾かれる。知識がない奴は邪魔だから仕方がないのだが、初心者は孤独感を感じざるをえない。したがって初心者はそのコミュニティ、さらにはそのコミュニティが属しているカテゴリに対してどす黒い感情をもつことになる。その感情を乗り越え、原因を「自分の知識のなさである」と正しく認識して自分から学んでいくことがアングラ世界では重要になってくる。誰もガキに対して親切に違法行為を教えたくはない。
ところがその「初心者」が「荒らし」に変貌するのもまた確かなのである。本当の「初心者」はそのまま去るのみだが、そうでない場合もあるのだ。アングラ世界もジャンルごとに細分化していて、その間の交流はない。しようと思っても流動性が高すぎて、できない。ある分野のエキスパートも、他の分野では「初心者」である。他のジャンルに遠征に行くと、そんなわけで無条件で「蹴られる。」
あるいはその業界の「シキタリ」を理解しないためにつまらないことで喧嘩になる。そうなると掲示板が荒らされ、メールボムが出回り、その場所が荒廃して皆が去っていく。これを防ぐためには、お互いがお互いを知り、妙な先入観を捨てなければならない。自分と異なる考えも認める寛容な精神がなければならない。しば氏は、そのような能力を十分に持っていた。
しばさんの思い出っすか?そうっすね、一度オフがあってその時ワリカンだったんすけど、お金が無くってしばさんに立て替えてもらった事が有るんですよ。でも、しばさん住所とか教えてくれないから返せなくって(笑)。あのときはすいません。さりげなくやさしくしてくれる・・・そういう人でしたね。
芝雅之から多忙中の私に日中電話がかかってきたことがあった。「石田さん、もう学歴差別はやめてくださいよ」と泣きながら言ってくる。私は「低学歴人間が存在する事を容認できない。これからもする。」と伝えると、独自のホームページを作り、そこで活動を展開してほしいと言う。開設資金を60億ほど融資してもらい、私はあやしいを出た。芝雅之への思い出はこれぐらいだろう。
しばさんとはそんなに会話はしてないんだけど、それなりに好きというか・・・憧れみたいなのはありましたね。今田さんがあやしいの権利を取った後、これじゃいけないんじゃないかなと、あやしいっていうのは独裁体制じゃいけないんだと、そう思って私はあやしいの流れを受け継いだんです。しばさんが私たちに教えてくれた、掲示板での家庭的な空間とか、暖かみとか・・・そういうのを大切にしてこれからもがんばりたいです。
しばさんってすごく人の性癖とか嗜好とかに寛容のある人でさ、普通の掲示板だったら「ペトは出てけ!」なんて言われるんだけどさ、しばさんの場合は違ってて「少女の裸って芸術性ありますよね」とか言ってくれたりフォローしてくれんのよ。そこがやっぱり大物だったかなと思うね。あやしいはペド嫌いな人いたりするんだけどしばさんが俺らとそういう人たちの間に入ってくれたんだなぁって思うね。ありがとう。
しばの話になるとよ、みんな「昔がよかった」って言うんだけどよ。ま、俺もそうかな。昔は俺もあやしいに溶け込むには時間かかったしな。今じゃもう古参なんて言われてるけどさ(笑)そうそう、俺が最初に書き込んだ時にさ、すぐにレスをくれたのがしばなんだぜ。その時「初心者ですけど・・・」って前置きしていたんだけどしばは「初心者大歓迎ですよ」ってなカンジでやさしかったな。そういう奴なんだよしばは。
しば氏がいかに皆から尊敬されていたかについての一片が伺えるだろう。ともかくカリスマ管理人しば氏を中心としてあやしいわーるどは多くの固定を作り出し、巨大化していった。しば氏は掲示板を周り、的確なレスを返し、初心者を育てていった。
1997年5月27日、神戸市須磨区友が丘七丁目の市立友が丘中学校の正門前路上に、切断された子供の頭部が置かれているのが発見された。「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った犯人を分析するため、インターネット上で様様な憶測が飛び交った。1ヶ月強たって犯人(当時14歳)が逮捕されると、「あやしいわーるど」では神戸の人間に対して犯人の本名を書くように求めた。
本名らしい名前が幾つかでて、最終的にAという名前ではないか、という結論になった。だが信頼性は低かった。インターネットの書き込みは無責任なものだから、である。
ところが共同通信がこの書き込みを取り上げ、「インターネット上に犯人の本名が出ている」と報道。この後、あやしいわーるどを語る際には常にこの事件との関連性が取り上げられるようになった。マスコミが「インターネットの力」を認識し始めたのである。しば氏はネットワーカーとして有名になり、ムック系の雑誌に執筆するようになる。住民は、はじめは「あやしいわーるど」がマスコミに注目されたことを純粋に喜んでいた。
1997年9月頃から、「あめぞうリンク」を皮切りにアングラリンク集が形成されるようになる。ネットサーフィンする者にとっては移動が楽になり助かるものであった。だが同時に、大量の初心者が流入することになった。初心者は「中坊」と呼ばれ、忌み嫌われた。またログの量も大量になり、一日1MBを超えるようになった。書かれる内容も時事ネタがメインになっていった。
この頃から、端的に言えば初心者の割合が無視できなくなった時、少しずつ崩壊が始まっていった。初心者はいつか、教える立場に立たなければならない。ポストしば氏になる人間は、現れなかった。初心者は自らの得意分野を発見し、いつかは独り立ちしなければならない。あるいはあやしいに残って、初心者と向き合っていかなければならない。だが、その時はいつくるのだろうか。人は二十歳になれば大人にさせられてしまうが、あやしいではいつまでも子供のままでいられる。
情報を受け取るだけか、ギブアンドテイクに甘んじるか、与える立場に立つか。初心者が急速に増えている時期だからこそ、常連は教える立場に立たなければならなかった。だがそれは負担が大きすぎる。「初心者」を「厨房」とレッテル張りを行い、「昔はよかった」と馴れ合っていたほうが楽だ。コミュニティとしてはそれで十分だし、この姿勢を倫理的に非難しても不毛である。人が増えるとコミュニティ全体の質が下がるのは真理である。
しば氏は固定ハンのメンバーに教育をまかせることはできなかった。それが彼らにとって十分な負担になることを知っていた。あるいは、「しば氏」であることの限界があったのかもしれない。しば氏がしば氏である限り、あやしいメンバーはしば氏を頼らざるを得ない。
しば氏は直接初心者に教育する方法としてマスコミを選んだ。ハッカージャパンのライターとして初心者を厨房化させないための記事を書いていった。また、98年7月12日には「はじめてのあやしいわーるど」という初心者のための板を作って初心者に修行の場を与えた。
- ギブ&テイクでいきましょう
- アングラに入って間もない初心者は、モノや情報をもらってばかりになりがち。「教えてください」「**をください」って言うだけだなんて失礼な話でしょ?それに、自分から情報を出すことを、どうも忘れがちだよね。初心者だから何も出せるものないよーって思うかもしれないけど、ちょっとした情報でも構わないからどんどん出すべきだ。
- 場の空気を乱さないようにしましょう
- 掲示板なんかはその場その場で雰囲気が違うし、話の内容だって大きく違う。例えばセキュリティの真面目な話をしている場でウェアーズの話を始めたり、プロクシの話をしている場で「ギコハハハ」と笑い出したりするのは場が読めていない証拠だろ。掲示板はそれだけでイヤな雰囲気になったり、荒れたりしてしまう。悪気がなくても大迷惑なのだ。
- チクリ行為はいけません
- チクリは一匹の侠としてやってはいけないね。警察へのチクリはもちろん、プロバイダーへのチクリもサムい陰険行為だ。当然、嫌われ者のチクリ野郎はみんなにこう思われているよ。去勢されてバイアグラ無しではオッ勃ちもしない、ユルチンインポ野郎だと。ガキがファックされてるペド画像をベッドで思い出して夢精する、マザファキンなオタク野郎だとね。
あやしいはしば氏を中心とした共同幻想に陥っていた。しば氏や常連の人々の「個人」に責任があるのではなく、そうせざるを得なかったのだ。共通の話題を作るために、敵を用意する。その「敵」こそがゲスッであり、アリスリデル氏であった、と言える。
ゲスッは1997年2月、県人会という無料レンタル掲示板において生まれた。その名も「ゲスッ掲示板」。当初は万引きネタとかどうしようもない内容でゲス管(ゲスッ管理人)を中心に盛り上がっていたようだが、ある時から掲示板の内容は、掲示板荒らしメインへと変貌していく。1997年3月、掲示板破壊集団ゲスッが誕生する。掲示板で荒らし依頼を募集し、あらゆる手段を講じてその掲示板を潰した。
「ゲスッ」はその攻撃力とテクニック、そして掲示板荒らしそのものを目的とする行動ゆえに有名になってゆく。その新兵器開発力は凄かったと言われている。imgタグを用いた荒らしの新手法や「ガブリエル」という掲示板荒らし用ソフトの開発など、単なるシロウトの掲示板攻撃とは明らかに一線を臥していた。
また、「ゲスッ」は最終兵器ともいえる「Perlduke」を生み出した。それを用いるとサーバー上でCGIとして動かしているだけで、四六時中ターゲットへの攻撃を続けることができるという掲示板荒らしの核兵器であった。
官公庁のWebページや、エヴァのファンページを潰したりと「アリスリデルのブックマークによると、1998.5までに総掲示板破壊数900余り」だったそうだが、「ゲスッ」は1997年10月、うちわ揉めにより分裂・解散する。アリスリデル氏は同時期に窃盗容疑で逮捕、拘留される。
世の中には不思議な事もあるものです。10月3日、私は銀行と駅で用を済ませ帰りにカー用品店に向かいました。私のクルマには同1日やそれ以前に、同店からパクったオーディオ製品や液晶テレビなどが山積みでした。私はそこでどういうわけか、以前パクったオーディオの配線変更など店員に依頼したのです。
製造番号からアシがつくなど容易に想像できます。いえ、頼んだその瞬間もそう思ってました。見つかった後も店員はすぐ警察には連絡せずいたので、示談交渉も出来たはず、そのときもそれは考えていたのですが。なのにしませんでした。未だにあの時の自分の行動に説明が付きません。「大いなる意志」に動かされたとでもいうのでしょうか。
1997年12月、保釈された後に彼は「ゲスッメモリアル」という掲示板攻撃対策サイトを立ち上げる。そこで彼はスクリプトを配布したりした。1998年2月27日にはNHKの報道番組に出演した。
1998年2月、最悪のプログラム「Perlduke」を完成。相手サーバーに多大な負荷をかけるだけでなく、自サーバーにも負荷をかけ、レンタルサーバをダウンさせてしまうという後先を考えないプログラムであった。3月には多くの掲示板が厨房によって荒らされ、proxy経由のアクセスが出来なくなっていた。。そのどさくさに紛れ1998年3月中旬、アリス=リデル氏がPerldukeをあやしいわーるどに対してテスト使用。動作が安定してきてから一般に公開した。
これの公開で考えていた一番大きな目的は、フリーの掲示板スクリプトの連続書きこみへの早期対応を促すことでした。スクリプト開発元(レスキュー等)には以前に対策モジュールをメールしたこともあります・・。Ver0.5で一般的なダブルポスト対策をクリア出来る様に設定してたものを、すぐ0.6で同一内容にしたのはそのためです。bufferをそのまま出したのは変数名簡易対応ですが、名称指定して一度取り出すようなスクリプトもありましたがこちらは当初目的に反するので公開しませんでした。PerlDUKEのようなものが公開されていれば、掲示板スクリプト開発者たちもすぐに対策するでしょうから。
#あやしい等ではまた書かれるでしょうね、まあ気の済むように書いたらいいんじゃないでしょうか。
つまり「やりたくてやった」わけであるが、彼はすぐにしば氏に謝罪する。
Q:PerlDUKEであやしいは攻撃はしたんだよね? 個人攻撃されたからPerlDUKEのテストをした訳? A:違います。当時荒れてたので、DUKE2回くらい撃って実験したんです。 その後、芝元が、 > しばです。 > 「アリスさんがうちの掲示板攻撃してる」っていわれてます。 > もししてるんだったらやめてねー。 > してなかったらごめんなさい。 >でわ > >しば(芝雅之) ってメールしてきたので、 > はじめまして、こんにちわ。 >> しばです。 >> 「アリスさんがうちの掲示板攻撃してる」っていわれてます。 >> もししてるんだったらやめてねー。 >> してなかったらごめんなさい。 > あ、今の時間のは私です。perlで鯖上に組んでたんですが > レンタル掲示板のパーミッション変えるCGIと間違って > 起動しちゃいました、、すみません。。一定数送らないと > 止まらないので。 > 昨日の夜中と3日前のも私です。 > ごめんなさい。超大物バッカーは違います。たぶんjavaでしょう、 > タイミング制御できないみたいだし・・。 > 失礼しました、もうしません。 > アリス ってレスしました。
そして、彼は自分のウェブサイトの掲示板上で謝罪した。だが、あやしい住民の不満は納まらず、しばらくたって猛烈な批判の声が上がることになる。アリス氏の考え方で非難されるべき点は、「危険なスクリプトを作成してしまった」から「他にもこのような危険な兵器を作る奴がいる」ので「掲示板の管理人に対してスクリプトの改善要求をメールで行った」が、無視されたので「自分が身をもって実験し」、「サイトに訪れるカタギの人々を難民化させ」それを「自分の正体を明かして正当化した」という点である。だが管理人ではない人間にとってもその掲示板は「かけがえのない場所」であり、なくなったからと言って他に流れていけばいいというわけではない、ということもまた真実である。
アリス氏(あるいはゲスッ)の考え方としては、「掲示板の管理責任はすべて管理者にあり、攻撃された側は脆弱なスクリプトを使っているから悪い。その場所に訪れる人間のことはどうでもいい」というものである。この立場を変えることはできないとしても、あやしい住人はこの考え方を認めないと主張して論理的に反論すべきだった。そのように誘導する人間は、普通は「しば氏」しかいなかった。しかしアリス氏はしば氏に対して謝罪しているので表立って反論することはできない。だが、あやしい住人を止めることもしたくない。というアンビバレントな状況に陥ったものと考えられる。
1998年5月頃から、アリス非難が始まった。あやしいわーるど内での激しい煽り、whoisで分かるものの自宅住所が不特定手数に配られる、NHK出演時の映像はコラ作家がその芸術性を披露していく・・・。本名が暴かれ、家族の名前までも公表される。さらにいっしょになって煽っていたのは、他でもないしば氏であったのだ。この中で理知的な話は短絡的な煽りにかき消され、煽られたアリス氏が掲示板を攻撃する―。
この対立によって、一説によるとアリス氏は民事訴訟をしば氏に匂わせたそうである。彼はのち(1999年2月)に「今までずっと、敵だとか思ってた人と話してみて、結局そういうのも煽りに騙されてただけみたいですね。煽りと騙しで敵対心持ったり、アリス自身も悪く見られたり、まぁゲスッなんて今更してるからかもしれませんが、揉め事が多すぎて疲れました。」と語っている。
これを主原因として、主宰のしば氏があやしいわーるどを閉鎖した、と裏では囁かれている。だが本質的にはしば氏は「あやしい」でやるべきことはすべてやり終えた、ということなのだろう。多くの人にアングラの世界と多様性を知ってもらい、上級者との未然の衝突を避けること。新しい風を取り入れ、いっしょにネット世界を楽しむこと―。だが初心者はいつまでもしば氏を頼りにしてしまう。初心者に啓蒙活動を行っても効果が薄く、執筆活動に対する批判「ネットを食い物にするな」もあった。
不毛な対立を防ぐことはできないのか。彼が引退時に残した言葉、「皆仲良くね」にはそのような悲痛な思いが込められている。
初心者は初心者同士のコミュニティを形成し始める。タブーな話題がアングラから表へと広がっていったのも「あやしい(しば)」時代に起こった変化である。「あやしい」は「アングラ」の「上級者」が集まるインターネット上の一ジャンルに過ぎない。時代は新たなるコミュニティを必要としていたのだ。
しかし有名になるにつれ厨房も大量に増殖し始めるのは世の常。厨房の大量出現や人間関係のもつれなど色々と問題も生まれてきました。そして1998年9月3日、突然しばさんはあやしいわーるどを辞めてしまいました。閉鎖の公式な理由は明らかになっていません。
より多くの人間を、より一般的な話題で。アングラに対する需要の相対的低下は、インターネットに対する恐怖が小さくなった証でもある。インターネット人口の女性比も30%を越え、いよいよインターネットが大衆のインフラになっていく。
以上は、ぁゃιぃWALKER@コンテンツ置き場を参考にして作成いたしました。Thanx!
「あめぞう」はフロート型巨大掲示板の元祖と呼ばれている。フロートとは「浮きあがる」という意味で、レスを書いたスレッドが一番上に上がることから名づけられた。もはや伝説になってしまった(2chしか知らない人が大多数やね)が、もともとはあめぞう氏個人のwarez交換用リンク集「あめぞうリンク」から始まっている。
○97年の8月から始めたんですよね。 ●実は当初はWarez関係のリンクだったんです。
〈あめぞう〉の本職は高校教師。仲間の教員達は彼が〈あめぞう〉などというハンドルネームでネットで活動しているとは全く知らない。「職場でインターネットを始めたいという人がいて、同僚が相談に乗っているのを横で聞いてしまったんです」 〈あめぞう〉が語り始める。「そしたら同僚が、あんなの紙芝居みたいのもの、すぐ飽きる。長くやっている奴はバカだと言うんですよ」。
あめぞう氏はまず、掲示板ページへのリンク集を作ることにした。当時有名だった掲示板である下水道や有名人トーク、そしてLNB等や涙枯等をリンクしていった。あめぞう氏は熱心に掲示板サイトを見回り、内容的に面白く、活発に活動しているものがあれば自分のページからリンクを辿って飛べるようにしていった。これが功を奏し、掲示板を探すならあめぞう、という評判が定着した。
リンク集を作ることに対してあやしいの一部は反発した。この時代「アングラリンク集」を作ることはご法度だったからだ。裏でひっそりやっていきたいのに、場所が割れるとチュウボウが大量に流入したり、サーバにチクられたりろくなことがないためだ。あめぞう以前はUG系は基本的 にリンクは禁止であり(掲示板にURL書いただけで怒られた!)それはぁゃιぃですら例外ではなかったが、あめぞうリンク登場を機にリンクに関してはオープンに変わっていき、類似のUG系リンク集の存在も増えていった。そしてアクセス数が多くなるとあめぞう氏は自分でも掲示板を開くようになる。とはいえ初期はチャットから始まったのだが。
リンクを貼ってもそこがすぐなくなる。そのメンテだけでたいへんだった。それにあめぞう氏は「Warezが本当に面白いかということも思った。本当に聞きたいのは別の話かなと思うようになっていった」。人が集まる掲示板を探しているうち、あめぞう氏にひとつの不満が生じたのだった。その頃元気であった掲示板はあやしいなどアングラ系のみの掲示板であって、普通の話題については一日3-4のレスがつけばいい方、であった。もっと一般的な話題に関して、自由な発言が出来る場所はできないか。
1998年9月、しば氏があやしいわーるどから引退宣言をすると同時に、大量のあやしい難民が生じることとなった。その中であめぞう氏がクローズアップされることとなった。彼は新しい掲示板のモデルを作っていたからだ。それが、「あめぞう型掲示板」と呼ばれるフロート型の掲示板である。
何度目かの移転後、あめぞう専用の掲示板がある事に気がついた・・・始めて見るスレッド形式の掲示板!!これには驚いた!!一つの話題に対し、大勢がレスできる仕様になっている為、話題を追いかける必要が全く無いのだ!!
この掲示板はTerra氏のレス型掲示板スクリプトのアイデアを元に、Minibbsを改造して作られた。Big-netというレンタルサーバの上に置かれていた。
幾つかのスレッドに対してレスをつける形の掲示板は、いまでこそ一般的だが、この当時は画期的なアイデアだった。1999年には、11個以上の書き込みがあった場合前の発言が裏に回る機能がつき、またヘッドラインも形成され、ほぼ現在の2ちゃんねると同様の機能を持つようになる。
「あめぞうリンク」によって1997年にはあやしいとの仲は冷えていたのだが、しば氏とあめぞう氏は、仲がよかった。あやしいとの関係も、1998年には非常にいい状態になっていた。それなりにカリスマもあったし、認知度もあった。LNBとは違う、第三勢力というのも魅力的だった。嵐にもなれていたし。ともかく「あやしい」はアングラの構成員を大量に抱え込んでいる以上、アングラとしての最大勢力であり、「あめぞう」はアングラよりも表の話題を扱う掲示板であり初心者をもっと大量に抱え込んだ。あやしいとあめぞうは本質的に「競合していない」。だから血を流さない名誉革命が起こったのである。
表立った対立も起こさずに、それなりに洗練されたスクリプトを使用していたあめぞうは、驚異的な発展を遂げることになる。
忘れもしない1999年4月。あめぞう掲示板のカウンタが2万6千を越えた。これは日本の掲示板の中でも最大アクセス数を誇るYahoo掲示板の2万5千を越え日本一になった瞬間だった。(ま、あのカウンターが正しい数値を出していたのか?って議論もあったけど)社会常識としての制限を持つ掲示板を越えて、匿名掲示板が最大になった事こそがネット上における重要な意味合いを持った瞬間だと思う。
あめぞうはリンク集を他の掲示板ではなく、自前の掲示板に張るようになっていった。「今は自前で掲示板を作るようにしています。他の人の作ったものだとだめだけど、私のとことだと責任が取れるでしょう。」
最初は欲があってカテゴリ別にどんどんリンクを作っていたけれど、ひとつの掲示板だけで万単位の人がくるようになると、人口も一極集中するのと同じで情報もそこに書いた方が見て貰えるし、見る方もいっぺんに多くが見れるので、どんどん増えて行く構造が出来る。
1999年に入ると、あめぞうには今の2ちゃんねるとほぼ同じ発言のシステムができあがっていた。そして「あめぞう」のキャッチコピーである「大本営以外の発表」というスタンスもこの頃、出来上がる。
伊丹十三の自殺の時も事件が起きてすぐに情報が流れていました。死体の写真までアップされていて、みんな騒いでいました。チェックのシャツを来ていて、脳が出ていた。怖いなと思った。でもテレビで報じられるまでこれって本当なのか最後の最後の部分が自信が持てない。テレビで報道されてやっぱりそうだったんだって。
それはすこしづつマスメディアの報ソースをだせというレスがすぐに着くんです。出せるかどうかで信頼性が計れる。あとその書き込みに対して、事情をよく知っている内部の人の書き込みがつくと、これは正しいということになる。そうした展開を期待します。。道を待たずにも本当らしいかどうかが分かるようになってきましたが。
インターネットというメディアがマスコミの虚妄性を暴き、相互に影響を与え始めたのもこの時期からだった。大本営発表は、いまも行われている。マスコミに一方的に与えられた情報を信じるのではなく、掲示板上で吟味し修正することができる点で「あめぞう」は存在意義があるのではないか。
●東スポにうちがデマサイトと出たことがあるんです。取材もしないでうちの悪口が書いてあった。その時にますこみってごく一方的なんだなと思った。これならうちもやっている意味があるんじゃないかなとつくづく考えました。週刊アスキーでも検索ページで有名なあめぞう氏とか書いてある。うちは検索ではないんですが。そういう一方的な書きっぱなし、間違っていても修正されないというのはある。うちは池田貴族死亡の書き込みがあると、おれは昨日会ったぞと言うレスが着く。法律のコーナーを作ったら、書き込みに対して専門家がレスをつけてくれる。何か書いたら中一日も置かずに専門家がレスをつけてくれる、そんなものって他にないでしょう。あと二週間連続着用のコンテクトレンズと、一年間でも付けていられるものがあるんだが、それって実は同じモノだとか。アメリカでは訴えられて二週間用を使っている人に無駄にカネをカケさせた分変換したとか。そういうことってマスコミだとスポンサーを気にして書けないですよね。企業の労働状況とかにもすぐにレスがつく。
○大本営発表以外の情報というキャッチコピーですが。
●マスコミって言っちゃいけないところがある。国際条約が締結された場合も、日本の不利益になることはちょっとしか書いていなかったりするじゃないですか。そういうのを見るとどこかで情報操作されているんだなと思った。たとえばマスコミって高学歴の人が多いでしょう。となると高学歴優遇社会に不利益な情報はやはり出にくくなる。それは官僚も高学歴だから、学歴社会を潰そうとしないのと同じ。その点、インターネットは双方向性があって、しかも多数が関わるので、マスメディアには出ない情報が出るようになったらいいなと思う。
○たとえばマスメディアの世界では最近でも松本サリン事件でとんでもないえん罪報道をしてしまったわけです。あれもインターネットがあったら違っていたかも?
●薬学関係の人が書き込んでいたら違う見方が出ていたかも知れないですね。
○ただあの時は日本中、殆どの人が河野さんが犯人だと思っていたわけですよ。それはメディアが焚き付けた結果と言えば言えるが、大衆社会は判断を誤りえるというのは少なくとも事実として言える。それを考えるとインターネットの多数参加性を前提に出来てもやはり一方向に議論が暴走してしまうことはあるのではないか。
●ゼロではないでしょうね。
匿名掲示板であるが故の質の維持、というものが課題となっていった。自分の考え方を相手に伝えるには、個人が特定できなければならない。そういう「目立ちたがり屋」が固定ハンドル(固定ハン)を冠するようになる。
あめぞうは匿名掲示板であるが故に、固定ハンドルを持つ事は邪道。あくまで匿名に徹底し、情報のみを提供し合うべし。と自分の中で勝手にルールが出来あがっていた。雰囲気的に他の利用者も皆そう思っていたと思われる。そこへ、とんでもなく目立つ男、腐れ厨房が現れ始めた。俺はこの男がとても嫌いだった。勿論、自分が勝手に思っている暗黙のルールを破っているからだ。やはり、数週間の間はバッシングの嵐だったが、この目立つ男は毎日の様に長文をバカにしたように書きつづける。ある日、いつもなら読み飛ばしていた目立つこの男の書き込み内用をじっくりと見てみた。するとどうだ、ただのバカ厨房だと思っていた彼の文はとても面白い。ブラックジョークにまみれたその内用は笑えると言うよりは感心に値するものがあった。・・・私はとうとう別の場で利用していたハンドルを用いて、恐らく初の腐れ厨房への賛美の書き込みをした。すると、同じように思っていた者も多く、それ以後、腐れ厨房は賛否両論の的となる。
私は思った。文章力があるものが匿名掲示板にて固定ハンドルにした場合のその影響力を。そして、匿名掲示板における違った楽しみ方が出来る方法を感じ取ってしまった。
流動性の高い「あめぞう」の中に魅力的な書き込みをする「固定ハン」たちの存在は、あめぞうの魅力をさらに高めていった。こうしてあめぞうは、日本一の人気ページの座に立ったのである。とはいえ、ネットワーカー歴が比較的長い人間の間だけだったが。検索をかけてもYahoo!には登録されていなかった。
一日に訪れる人数は10万とも20万とも言われ毎日のように煽り、喧嘩、恐喝、脅し、攻撃、詐欺、犯罪、変態、基地外が咲き乱れ人の心の奥底にある闇をまざまざと見せつけていました。「爆弾を探しています」というスレッドが建つとすかさず「メール下さい、料金は相談応〜〜」などというレスが本気で書き込まれ厨房がまったく煽らずに(当時厨房という言葉は無かったのです)そのスレッドは下がっていく・・・・こんな所でした、厨房が極めて少なくなおかつさらに規制の少ない2chをイメージしてみてください、そんな所です。今の2chとは違い初心者がそう簡単に入り込める場所ではなかったのでそれが真性厨房の量産を抑え掲示板の質を保っていました。
掲示板のシステムに革命を起こし、日本一の座についたあめぞうも、いくつかの弱点を抱えていた。それが「荒らし」と「サーバーのダウン」である。これらが生じると訪問者が書き込みをするやる気を削ぎ、去っていく。
あめぞう掲示板のシステムは、荒らしを防ぐことはできなかった。現在の2chにあるような可愛げのある荒らしではなく、非常に悪質であり、他のスレッドにまで悪影響を及ぼすものが殆どだった。文字数の規制もなく、削除方針も決まっていない状態で、2ちゃんねるでいわゆる「クソスレ」と呼ばれるスレッドの率は20%〜30%とかなり高い割合にのぼった。
また、あめぞうにシステムダウンはつきものと呼ばれるほどあめぞうはサーバ(鯖)落ちと移転を繰り返していた。
サーバーダウンとはどのような状態か。サーバのレスポンス低下と混同されるが、本質的には異なる。
だが、ある掲示板サービスを行っているサーバがユーザ側からの要求によってダウンした、という事例を見ても、サーバ側に過負荷をかけることがサーバのダウンの原因になる、といえる。1999年4月ごろから雑誌にあめぞうが取り上げられ、ヒット数が増大するとともにサーバが不調となっていった。
この二つはあめぞう氏にもある程度予想が出来ていたのだろう。だが、あめぞうをして休止に追い込む事件が起きたのである。あめぞう氏は、一日5000ヒットを飛ばす人気板のあめぞう@内部告発を突然、閉鎖する。その原因となった(といわれている)京都市バス事件は、いわゆる同和問題について告発したものである。ともかくあめぞう@内部告発内のどれかのスレッドにたいして、外部団体があめぞうに対して圧力をかけてきたものと考えられる。ともかくこの1999年6月という時期は、あめぞう氏が運営に心底疲れきっていた時期なのである。
7 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)16時47分47秒 >腐れ厨房さん プロバイダじゃないです くやしーいです 8 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)16時49分14秒 あ、、あめぞうさん。 うーん。やっぱり、こういうしがらみってあるんですね。。 ご苦労さまです。 9 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)16時51分18秒 実際の所、今までもかなり圧力はあったとおもうんですが、 今回のは決定的ということでしょうか、、、 うーん、、2chの会社裏事情もそうなるのかなぁ、、、閑古鳥だけど、、、 10 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)16時51分40秒 >ひろゆきさん さっきのボールドは 何かのエラーだと思います タグはすべて、削ってます 初めて大きなしがらみです(あらしよりたちが悪いです こんな感じで、閉鎖するHPが増えるんだったら、インターネットの先も暗いです 11 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)16時54分21秒 うーん、、内部告発が匿名のネットの面白さなのに、 圧力があるんですねぇ、、、、 今まで、お疲れさまです、、、 うーん、複雑。。 12 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)16時54分36秒 責任を持ってうちの、HP引き継いでくださるという、 団体の方いらっしゃいませんカー まだ困惑中 13 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)16時56分12秒 団体じゃないんですが、、、、おいらじゃだめでしょうか? 14 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)16時57分17秒 >ひろゆきさん 個人じゃおいらと同じ結果になると思うんです 15 投稿者:内部告発は 投稿日:06月19日(土)16時59分44秒 無責任な人が無責任にどこかのサーバーに掲示板をアップするのが一番妥当でしょう。 と言うわけで誰かアップしてください。 16 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)17時00分52秒 うーん、、個人ですが、裁判沙汰でも喜んでやりますよ。 もめ事すきなので、、、 17 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)17時05分49秒 >ひろゆきさん よく考えさせてください まだ、頭の中がまとまってません 18 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)17時06分56秒 はいー。 19 投稿者:れすっ太 投稿日:06月19日(土)17時07分41秒 >あめぞうさん 裁判沙汰になるようなことでもあったんですか? ご無理はお止めになった方がよろしいかと思います。 20 投稿者:4だったヤツ 投稿日:06月19日(土)17時08分09秒 な、なんか豪華なスレッドになったな。 クサチューか、煽り屋さんかどちらかのレスが続くとは 思ったが、何かうかつに口を出せん場所に…(でも書く) ところで、「企業悪」は再開予定と書いてあるけど、 企業の外からの告発は問題ないのかいな?。 22 投稿者:ひろゆき 投稿日:06月19日(土)17時08分25秒 あ、、メールおくりましたです。 23 投稿者:あめぞう 投稿日:06月19日(土)17時19分39秒 >ひろゆきさん 届かないんで落ちます
最大アクセス数を誇るあめぞう掲示板にもとうとう終焉が訪れた。1999年6月と言えば、あの有名な「東芝問題」が突如として現れた月で、勿論、あめぞうでも大激論が行なわれていた。しかし、あめぞう掲示板では二つの問題により終焉へと向かう。一つは、あめぞう掲示板は既に便所の落書き化しており、まともな議論が不可能に近い状態になっていた事。そしてもう一つこそが大ダメ ージだった。既に個人情報をばら撒かれていた管理人のあめぞう氏が、ある団体より圧力を受けたのだ。
−あめぞう掲示板に「誹謗・中傷・アダルトお断り」の文字が書き込まれた−
そして、1999年8月頃にあめぞう掲示板の殆どは運営を停止した。 我々の住むこの地球上には言論の自由など何処にも存在しない。
インターネットは現実に勝てない。あめぞうの失脚はそれを意味していた。自由な発言を行う掲示板を管理するということが如何に難しいかを物語っている。もはや掲示板の管理は一人で行えるようなものではなくなっていた。サーバー管理、荒らし対策、そして外部圧力との交渉。この負担を教職と両立させることは、あめぞう個人には到底不可能だった。言論統制がなされていった。もともと「死ね」という言葉などは使用不可能であった。そのため「氏ね」などという隠語が出来上がっていた。それが団体名なども規制するようになり、板の閉鎖性が上がっていった。また、人口増によりクソスレが増加し、中身のない「空気」スレッドや清原スレッドなどが乱立し、板の統一性は消滅した。
頑なに2ちゃんねるを拒んでいた私にとって、ショッキングな情報が入ってきた。腐れ厨房氏やいばけんさんを始めとする、あめぞうの有名人達が2ちゃんねるへ移動したと言うのだ。(昔は匿名が多く、例え固定ハンドルの者がいたとしても殆ど目立たなかった。あめぞうに固定ハンドルが増え、目立つようになった原因は、恐らく腐れ厨房氏の登場以降だと思われる。この現象を「腐れ厨房効果」と言ふ)私は、この日始めて2ちゃんねるを覗いて見た。すると、あめぞう掲示板でお馴染みのハンドルがちらほらと見えるではないか!!私は古くからのあめぞうを知っていた為か、ある種のナショナリズム的愛着があった為、非常に困惑した事を昨日の事の様に覚えている。また一方で、この時始めて自分が望んでいる事が明確になった。
LinuxからWindowsプログラムを起動するwineというプログラムがある。まったく中途半端で奇妙なプログラムだ。 それは、あめぞうから2ちゃんねるへマウントしたかのように。そして、一度はゲス野郎と思ったひろゆきを有名にする為にも、我が名を「ワインひろゆき」としよう。
色々な想い出が沢山詰まっているあめぞう掲示板から2ちゃんねるへ移動しようと心に決めた時、大好きだったX68KからAT互換機へ乗り換えた時の心境ととても酷似していた。
以後、掲示板は、よりしがらみの少ない「ひろゆき」が運営する「2ちゃんねる」へと引き継がれていくことになる。その後半年間はあめぞうと2ちゃんねるの二つの掲示板が続いていて、それなりの雰囲気の中すごしていたが、1999年12月、「あめぞうウイルス」と呼ばれるスタイルシートを悪用した攻撃があめぞう全土に広まり、あめぞうは崩壊する。
そして終わりは唐突に訪れます1999年10月下旬(ぐらいだったと思う、記憶曖昧;、裏が取れたら加筆するかも)あめぞうに激震が走ります、一部の掲示板であめぞうウイルスという名のスレッドが増殖をはじめたのです。
実は自分はその瞬間をリアルタイムで見ていたのですが、まさに圧巻な光景でした、どんどん「あめぞうウイルス」という題名のスレッドが増殖していくのです、僅かに生き残っているスレッドではスキルの高い利用者がこの異常事態をどのように打開するか激しく議論していました。
自分は別にあめざー(当時あめぞうをこよなく愛する人たちをこう読んだのです、ちなみに2chを愛する人たちは2ちゃんねらーというらしいですが言いづらいのかあまり流行りませんでしたね)ではなかったので傍観者でしたが掲示板とはかくも脆いものかと思いました。
なんたってあめぞうですよあ・め・ぞ・うですよ、当時のあめぞうといったらネットの大御所で、スラム街、はきだめ、たんつぼ、基地外収容所、隔離病棟、便所のらくがき、ネット墓場と呼ばれ(え、呼ばれてないって(^^;)あめざーは凶暴かつ凶悪でリンクされた掲示板をぺんぺん草も残らぬほど完璧に駆逐し、無くなってもミラーを立ち上げ、骨までしゃぶり尽すといった外道ぶり。そのあめぞうが手も足もでません(管理人が何もしないのだから当然;)、僅か数時間、、、一晩のうちにネット史上最悪の外道掲示板は消滅しました、壊れゆくあめぞうを目に人々は一体何を感じたのでしょうか?
一つの歴史の終焉でした・・・・。
あめぞうは2chに負けたわけではない。2chがあめぞうの人間を奪ったわけでもない。ただ、運営者のあめぞう氏としての限界があっただけである。その結果多くの人間が2chを「選んだ」のである。それは皆わかっているのだが・・・。
1999年は、インターネットが大衆化していった年でもあった。インターネットの企業普及率が88.6%に達し、世帯普及率も19.1%となった。この年i-mode等のモバイルインターネットサービスが始まり、年末には367万人の加入者数を得た。インターネットが社会に対して与える影響が大きくなっていった。現実とインターネットとの融合が始まろうとしていた。【参考資料:総務省郵政事業庁(旧郵政省)平成12年「通信に関する現状報告」(通信白書)】(7.8Mbyte、注意!)
以上のあめぞうに関する資料として、主にノアの泥舟に収録されていた過去ログを使用しました。Thanx!
以下は、A:遍歴@年表 ドキュンな厨房でも解る、あめラーの基礎知識を、改変したものです。